店を閉店して早一ヶ月が経とうとしている。
気づけばセミが鳴いてゲリラ豪雨というイカれた真夏に入ったようだ。
人生は常に真冬のはずだが、おかまいなしに季節は過ぎていくというのは、さも人間がちっぽけである様を呈している。
仕事を手放したことへの開放感や充足感のようなものがあると思いきや実はそんなものはない。あるのはシンプルに今後の道筋への恐怖と不安だ。
20代はがむしゃらに行き当たりばったりをして、それなりに勇気を持ってチャレンジしてきたこともこの歳になるといい加減、白けてきたような感じがする。
自分で何かを決断することを多くしてきたにも関わらず、それが次へつながる血肉となっているのかどうか、実際は自分は何がしたいのか、そんなことが全く見えない透明の状態になっている。
経験則からくる”結果”や”未来”が机上の想像だけで片付いてしまうというまさに経験が盲点を生む状態にある。
俗に言う人は年齢を重ねるにつれて新しいことへのチャレンジをやめてしまう、というジレンマはなまじ積み重ねた経験則が邪魔(保守)をしている場合が多い。
本当はここで過去の失敗を踏襲しないように新たな物事へつなげることが正解なのである。が、それが容易にできれば苦労はしない。
年齢とともに失敗への精神的なハードルは高くなるからだ。
最近、自分はいよいよ生来の怠け者なのではないかと思うことがある。
根本的にできることしかしたくないし、すべての原因を環境と大きなものに転嫁するという、救いようのない考えをしている。
その言い分としては、今日の日本社会はすべてが事足りてモノに溢れているにも関わらず、一向に”希望”だけがないということだ。
政権や企業を筆頭に確実に没落してく様が見て取れるから、これ以上巻き込まれたくないし加担したくないという逃げ口上だけがテキパキと働く。それによって憂鬱になることがもっとも自分自身を没落させていく要因であるにもかかわらず…
友人などと飲みに行くと上記に書いたような”わだかまり”のようなもののほとんどは視界に入っていない。社会保険が高くなるとか節税対策ガーという話題も相手の属性(会社員)を見てしてるのに当人はナニソレとばかりにあっけらかんとしている。スポーツさえできれば今の人生に悔いなしという状態で、ときにそれが眩しくさえ思う。
3S政策といえば陰謀論者のように聞こえるが、本当にうまく機能してて、実際にそれに気を取られてる間にひしひしと没落への一途を辿っている。もはや見たくない現実は見ないというのが幸せのライフハックになりつつある。
頭のいい若者や学生の間で将来への強い不安が蔓延しているのは、薄々それに勘づいているからで、その感覚自体は間違っていないし対策を考えておくに越したことはないだろうと思う。
ただ、こんなことばかりブツブツ考えていると確実に社会不適合者になるので、対策として最良なのは安牌ながら”没頭”だろうなと。
『ネガティブを潰すのはポジティブではない、没頭だ』
オードリーの若林さんの名言ではなかろうか。
これは本当にその通りなんだけど、没頭するものがない”無職×無色”にとってはかなり難題である。この没頭のプロセスを細分化してもっとも最下層にくるのは手当り次第、手を付けてみることだったりする。
重い腰をあげて何かをやるしかないのだなぁ。。と生来の怠け者は思うのである。
それにしては外が暑すぎるのだ。