36歳のおひとりごと

雑文を並べやすいからね。

無職透明

店を閉店して早一ヶ月が経とうとしている。

気づけばセミが鳴いてゲリラ豪雨というイカれた真夏に入ったようだ。

人生は常に真冬のはずだが、おかまいなしに季節は過ぎていくというのは、さも人間がちっぽけである様を呈している。

 

仕事を手放したことへの開放感や充足感のようなものがあると思いきや実はそんなものはない。あるのはシンプルに今後の道筋への恐怖と不安だ。

20代はがむしゃらに行き当たりばったりをして、それなりに勇気を持ってチャレンジしてきたこともこの歳になるといい加減、白けてきたような感じがする。

 

自分で何かを決断することを多くしてきたにも関わらず、それが次へつながる血肉となっているのかどうか、実際は自分は何がしたいのか、そんなことが全く見えない透明の状態になっている。

経験則からくる”結果”や”未来”が机上の想像だけで片付いてしまうというまさに経験が盲点を生む状態にある。

 

俗に言う人は年齢を重ねるにつれて新しいことへのチャレンジをやめてしまう、というジレンマはなまじ積み重ねた経験則が邪魔(保守)をしている場合が多い。

本当はここで過去の失敗を踏襲しないように新たな物事へつなげることが正解なのである。が、それが容易にできれば苦労はしない。

年齢とともに失敗への精神的なハードルは高くなるからだ。

 

最近、自分はいよいよ生来の怠け者なのではないかと思うことがある。

根本的にできることしかしたくないし、すべての原因を環境と大きなものに転嫁するという、救いようのない考えをしている。

その言い分としては、今日の日本社会はすべてが事足りてモノに溢れているにも関わらず、一向に”希望”だけがないということだ。

政権や企業を筆頭に確実に没落してく様が見て取れるから、これ以上巻き込まれたくないし加担したくないという逃げ口上だけがテキパキと働く。それによって憂鬱になることがもっとも自分自身を没落させていく要因であるにもかかわらず…

 

友人などと飲みに行くと上記に書いたような”わだかまり”のようなもののほとんどは視界に入っていない。社会保険が高くなるとか節税対策ガーという話題も相手の属性(会社員)を見てしてるのに当人はナニソレとばかりにあっけらかんとしている。スポーツさえできれば今の人生に悔いなしという状態で、ときにそれが眩しくさえ思う。

 

3S政策といえば陰謀論者のように聞こえるが、本当にうまく機能してて、実際にそれに気を取られてる間にひしひしと没落への一途を辿っている。もはや見たくない現実は見ないというのが幸せのライフハックになりつつある。

頭のいい若者や学生の間で将来への強い不安が蔓延しているのは、薄々それに勘づいているからで、その感覚自体は間違っていないし対策を考えておくに越したことはないだろうと思う。

 

ただ、こんなことばかりブツブツ考えていると確実に社会不適合者になるので、対策として最良なのは安牌ながら”没頭”だろうなと。

『ネガティブを潰すのはポジティブではない、没頭だ』

オードリーの若林さんの名言ではなかろうか。

これは本当にその通りなんだけど、没頭するものがない”無職×無色”にとってはかなり難題である。この没頭のプロセスを細分化してもっとも最下層にくるのは手当り次第、手を付けてみることだったりする。

重い腰をあげて何かをやるしかないのだなぁ。。と生来の怠け者は思うのである。

それにしては外が暑すぎるのだ。

はじめてのはてなブログ

WordPressっていろいろもっさりしててめんどくさいなー

ってことで、雑記専用のはてなブログをリスタートした。

 

メインブログ

ありーゔぇでるち-ノーマルライフにさようなら-

アドセンスペタペタでもう6年位経つだろうか。

なんかお役立ち系の記事が数万程度の収益を生み出してるけど、まぁそこはもう小卒と同じ年月だから...

 

当ブログはなんだかんだ言ってもう35歳という完全折り返し地点に到達したゆとりおっさんが、今後どう生きていくか、というもがき系ブログになりそうだ。

 

メインブログのタイトルを挿入して思ったけど、結局はノーマルライフにさよならしてないし、なんなら大好きじゃんっていうオチ。

 

今は6年前とは考え方が180度変わってる、というより年齢が過ぎて沈みゆく現実がきちんと見え始めたというのが答えだ。

 

実際はノーマルライフこそが最終的な目標であり、それができればもう他にはなにもいらんというくらいには理想が低くなってきた。

なんならもはや生きてるだけで偉いなくらいにはなってる。

 

ちなみに僕は無職もサラリーマンも自営業も経験してるせいで、それぞれの得手不得手がわかるけど、一つだけ言えるのはどれもおしなべて”辛い”ということ(笑)

 

辛さの種類が違うだけで強度としては同じくらいかな。

 

コロナや昨今のいろいろ高騰で自営の仕事に打撃を受けて、まぁ今は回復してきてるかもしれないけど、それを手放すという選択をした。

これは人生でかなり重い決断だなーっていう。

 

この歳になってこれから何をするの?(というか何ができるの)

マジでこの一言に尽きる。

 

自営は社会的になんのキャリアにもならないし、そもそも再就職できるかどうかもわからないし、働きたいかもわからない。

多分、独りだったら確実にどこぞの地方でセミリタイアしてるだろうな感。

 

だけどそうはさせまいと睨んでる家族がいる。

それが糧になると思えばもうしばらく頑張ろうかなという気持ちが湧いてこないでもない。

 

でももう都会は心底疲れたので、場所については本当に考える必要があるだろう。

 

働いてれば口をついて休みたいという言葉しか出てこない僕が言うのもなんだけど、これだけは確実に言える。それはヒマが精神を蝕む最大の要因になるということ。

 

暇→余計なことを考える→ネガティブ思考→拗らせ→SNSクソリプ

 

ざっくりとこんな感じで極論、暇は大敵だと思った。

「ネガティブを潰すのはポジティブではない、没頭だ」それはその通りだなと。

 

ここ数年で思ったのは、暇こそが至福という言葉は経済力が裏打ちされてはじめて成立するものであると。

これは財布が寂しいのに旅行に行ってもおもいきり楽しめないという心理に似てる。

もちろん、それでも旅行を楽しめる人はいるだんだろうけども、少なくとも僕は違うらしい。

 

おそらくこれは年齢的なものが大きく関係していて、20代の頃ならそんな経済不安や不確定な将来などオール無視でOKだった。

 

しかし、この歳になってくるとやはり家庭を維持しながら子どものことを考えて、という思考がどうしても付きまとってくる。これはもう本能のインプットでしかない。

周りがどうとか経済がどうとかではなく動物の本能的なものが直接脳にアクセスしてくるという感じだ。

 

今は子どもなんて”上級国民の贅沢モノ”だという風潮がまん延してるけど、一旦は脇にどけておいていいことだろう。

このフレーズ自体が「こうでなければならない」という一辺倒に支配されすぎてるように思う。

 

年齢に応じて適正なプロセスを歩まないと、なんだか狂ってしまうというのは、最近よく目にする言葉だけど、まぁそれは一理あるなと。

それが良いとか悪いは別としてね。

 

今日はこんな生産性のないことを書いて一日が終わりそうだ。

ナマッてたタイピングの感覚を取り戻せただけでも良しとすべしである。

 

35歳をやっていこう。